日々、雑感 vol.1
ここのところ、「桜を見る会」とか薬物関連での芸能人の逮捕とか、世間で話題になってますね。こういった報道や世間の反応を見ていると、いくつか思うところがあります。
1.人の感覚は麻痺する
「桜を見る会」では、違法、違法じゃない、モラルの問題だ、とか様々な報道がなされていますが、改選前の議員枠や首相の夫人枠が出てきて、やり過ぎだな、と感じる部分があります。どこまで許されるかはそれぞれの許容度がありますが、年月が過ぎる中で「これくらいだったら許されるだろう」という範囲が大きくなっていったことは想像に難くありません。
これは、人に対する「甘え」でも同じ事が言えて、最初は「ちょっとお願い」位だったものが、段々と、私とあなたの仲なので、これくらいはいいでしょ、とお願いすること(相手への負担)が大きくなっていって、どこかで相手に愛想を尽かされたり、喧嘩になったりします。
極端、というかわかりやすいのが、夫婦でしょうか。結婚当初は、お互い、気持ちが熱いので許容範囲が広いのですが、時間が経過し、子供が生まれたりすると、意識が子供に向きますから、夫婦の間では「自分の事は自分でやって(本来はこれが自律した人間)」となり、段々と「私ばっかり大変な思いをしている」となるわけです。
話が逸れましたが、一人の自律した人間であれば、自分の立場や裁量、時代背景などを自分の頭で考えて、何かに左右されすぎることもなくなり、大きな間違いは犯さないような気がします。
2.バッシングが極端
これはホントに見ていて辛いです。もちろん、悪いことは悪い(薬物中毒は法律上は割ることですが、逮捕して刑罰を加えることが解決には結びつかないと考えています)のですが、全人格を否定するようなバッシングが多いような気がします。叩いていい、となったら誰にも遠慮せず、一方的に叩く、という感じでしょうか。
これは、皆さん、何かしらの不安や不満を抱えていて、他人が失敗した際に不安が表面化しているのかもしれませんし、単純に、人に対して優越的な立場にいたい、といったことなのかもしれません。
誰かが同じような失敗をしない(社会をよりよくする)ように、とか、失敗を責めるのではなく「次、どうするのか」とか、そういった雰囲気の社会の方が、みんなチャレンジすることに前向きになり、生きやすくなるのではないかと感じるのは私だけでしょうか(私は「生きにくい」社会で、時々、山に隠居したくなります)。
上記のようなことを考えながら、子供達の姿に目をやると、この大変な世の中に送り出すためには、相当鍛えないといけないな、と感じました。もちろん、「鍛える」というのは厳しくする、のではなく、
・嫌なことがあっても、それは君たちの人生を左右することはほとんどない。
・左右することがあるなら、それには一緒に向き合おう(君たちは1人じゃない)。
ってことかな、と。